ツクイヨシヒサの「必筆!仕事人」

マンガ評論家&ライターのツクイヨシヒサによるブログです。酸っぱいブドウの酸っぱさについて、主に語っていきたいと思います。今後ともよろしくお願いします。

2011年12月

あだち充・読切『ゆく年くる年』

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『ビッグコミックスペリオール』(小学館刊)の2012年1月13日号に、
あだち充『ゆく年くる年』が掲載されていますので、ご紹介しておきますね。


巻頭カラー読切となる本作は、
高校生活最後の大晦日を迎えた野球部員たちの青春模様を描いた作品です。

夏の地区予選での行き違いから、
疎遠になってしまったチームメイトの友情と、
チアガールだったヒロイン・奈津子を巡る恋模様が綴られています。



それにしても、掲載誌が『~スペリオール』というのは珍しいですね。

編集部によれば、「あだち充、実は約20年振りのスペリオール帰還」だそうです。

ちなみに、初登場作品は『5×4P』

1992年14号~18号に掲載された短編連作です。

喫茶店「5×4P」の日常を描いた作品で、
4P(ページ)の連載を5回続けたため、
このタイトルが付けられたようです。

ちなみに現在は、あだち充傑作短編作品集『ショート・プログラム2』で読むことができます。



この『ゆく年くる年』で、なかなか心にくいなーと思ったのは、
主人公たちのチームが予選ベスト8で対戦予定だった高校が、
あの「栄京学園」だったこと。


「栄京学園」と言えば、『H2』で天才・広田勝利を擁し、センバツ優勝を果たした学校です。


2011年設定が明記されている本作においても、同校は
春のセンバツを制覇した、という設定になっています。


以前、このブログのエントリー
『タッチ』の明青学園が、16年後の『KATSU!』の中に登場する
という話をしましたが、あだち充ワールドはやはり今もつながっているようです。





   

『このマンガがすごい!2012』にコメントしてます。





今年も『このマンガがすごい! 2012』(宝島社刊)が出ました!

「各界のマンガ好きが選ぶ このマンガがすごい! オトコ編」
昨年同様、選者としてコメントさせてもらっています。

機会があれば、お目通しをばよろしくどうぞ。


ではではー。(・▽・)ノ




  

考察『ベルセルク』/たとえば【相互補完】とか

ベルセルク 33 (ジェッツコミックス)





引き続き、『ベルセルク』の考察です。

例によって、「ネタバレ配慮のショートコラム」だと思っていただければ幸いです。


─・─・─・─・─・─・─・─・─・─・─・─・─・─・─・

前回は『ベルセルク』の登場人物たちが自己を「投影」し合っているという話をしましたが、
今回はお互いに欠けている部分を補い合っているという「相互補完」について考えます。



ベルセルク (24) (Jets comics (923))


●「ファルネーゼとセルピコ」の相互補完


わかりやすいのは、「ファルネーゼとセルピコ」の関係ですね。


ヴァンディミオン家の「鬼子」として育ったファルネーゼは、
セルピコ以外に信用できる人間を持たず、
幼い頃から感情を殺して生きてきたセルピコは、
ファルネーゼを守れる人間は自分しかいないと思っている。


ファルネーゼは言います。

「お前なら 私にあわせて歪んでいるいるから……」(第22巻より)


一方のセルピコは、ファルネーゼとの関係について次のように表現しています。

「己の半身の様な もう一つの鎖された魂の傍らで 私は暗い安息に包まれていました」(第25巻より)


さらに、ファルネーゼの母であるヴァンディミオン夫人は、
セルピコが10年以上もファルネーゼに仕えていることを知り、口を開きます。

「あのファルネーゼさんと10年も……そう …となると あなたもそうとう歪ね
 そういう者同士は離れられないわ
 絡み凭れ合わないと立っていられないから まるで双樹のように」(第29巻より)


お互いに歪んでいるがゆえに、お互いを求め、寄り添う。
ファルネーゼとセルピコが、「相互補完」の関係にあることは疑いようがありません。



ベルセルク (7) (Jets comics (542))


●「ガッツとキャスカ」の相互補完


では、この関係を作品の根幹を成す2つの関係、
「ガッツとキャスカ」「ガッツとグリフィス」に当てはめてみたいと思います。


ガッツとキャスカは、出会った当初、お互いにあまりいい印象を抱いていません
(と文章で書くと、何だかベタなラブコメみたいですが・笑)。


しかし時間と経験を経て、徐々に2人の関係は変わっていきます。


「この男の中になら 私の場所があるかもしれない
 与えられるだけじゃなく 与えることができるかもしれない」(第9巻より)


キャスカのこの言葉、特に後半は2人が「相互補完」の関係であることを示しています。


残念ながらキャスカにとって、憧れの人・グリフィスは
こんな風にお互いを補い合い、高められる関係ではありませんでした。




ベルセルク (8) (Jets comics (559))


●「ガッツとグリフィス」の相互補完



では、「ガッツとグリフィス」の関係はどうでしょうか。


じつは、ここからが今日の本題です。



ベルセルク』という物語において、

「グリフィスは、なぜガッツを必要としたのか」

という点は、非常に大きな意味を持ちます。


同時に、これは考え出すとかなり強く頭をひねってしまうポイントでもあります。



逆なら、すぐにわかるんですよ。

そりゃあ、ガッツはグリフィスに憧れますよ。
自分にないものをたくさん持っていますから。


というか、グリフィスは何でもござれの完璧超人ですから、誰もが憧れる存在なわけです。


そのグリフィスが、なぜガッツにだけ特別な態度で接し、
キャスカが嫉妬するほどの信頼を寄せるのか
……?


答えはやはり「相互補完」にある、と考えます。



(平民出身という出自以外)すべてを兼ね備えているグリフィスと、
(剣のデタラメな強さ以外)何も満たされていないガッツ。

一見すると、「持つ者/持たざる者」という関係にある2人ですが、
ガッツにはグリフィスが欲しくても手に入れることのできない、ある性質を備えています。



それは「捨てる」ことです。




剣風伝奇ベルセルク ― オリジナル・サウンドトラック


自らの野望のために生きるグリフィスは、
幼い頃から「獲得していく人生」を積み重ねてきました。

そうでなければ〝天空の城〟(ラピュタではない)には届かないからです。


一方のガッツは、その過酷な生い立ちからか、基本的に
何かを欲しがったり何かに執着するということがありません。

むしろ何かを得られる立場にあっても、自分から放り出すような性格です。



そんなガッツの戦いぶりをグリフィスは次にように評しています。

「まるで…自分の命を試している様に見える」(第4巻より)



じつは限りある人生の中で、己の命の価値を試しているのはグリフィスも同じです。


しかし、2人はその方法がまったく逆なわけです。



グリフィスは最小限の犠牲で、最大の夢をつかむための生き方、
ガッツは自らの命を危険にさらして、そこから命を拾おうとあがく生き方。


同じようにギリギリの命を燃やしながら、
自分には絶対にたどり着けない輝きを持っている相手。




ゆえに2人は魅かれ合い、
〝「相互補完」し合おうとする〟のです。




のです…………



…………たぶん。








  

考察『ベルセルク』/たとえば【投影】とか

ベルセルク (27) (Jets comics)




ベルセルク』が映画化されるということで、関連記事を書いたりしています。

あらためて原作を読み返しながら、頭をかすめる雑感チラホラ。
メモ書き代わりに書き留めておこうかなと。

評論というより、「ネタバレ配慮のショートコラム」だと思ってもらえれば幸いです。


─・─・─・─・─・─・─・─・─・─・─・─・─・─・─・


ベルセルク』には、登場人物が「己を誰かに投影する」というシーンが繰り返し描かれます


例えばガッツは、伯爵に恐怖を植えつけられたバルガスの姿に、自分の姿を重ね合わせ、
その醜さ・惨めさを激しく嫌悪します。

一方で、白龍将軍ユリウスの長男・アドニスには、
ガンビーノと剣の修行を繰り返した自らの幼き日を重ね合わせ、感傷に浸る。

さらに、そのアドニスへ理不尽な刃を向けた己に対し、今度はゾッドの禍々しさを見い出します。


じつはこの構造は、物語の中で複層的に用意されていて、
自己を投影しているはずのガッツもまた、誰かに投影されながら生きています。


代表格は髑髏の騎士でしょう。

ゴッドハンドに仇なす彼は、「踠く者(もがくもの)」であるガッツに、
少なからず過去の自分を投影しています。

だからこそ、「狭間の世界」で生きる術を教えたと考えられます。


かつて彼が身につけていた「狂戦士の甲冑」をガッツに受け継ぐとき、森の魔女・フローラは言いました。


「人は同じ過ちを繰り返す様に見えるけれど 因果は決して円環ではない
 螺旋なのです あの子達があなたや私と同じ道を選ぶとは限らない」(第26巻より)


髑髏の騎士とガッツの歩んでいる道が、シンクロしていることは疑いようがありません。



あるいはゴドーやゾッド。

鍛冶屋として剣を鍛えること、戦士として強者を相手にすることしか知らない2人は、
自分たちと同じように不器用な生き方しかできないガッツを
どこかで同志のように思っている節があります。


性格こそ違えど、身寄りのないガッツの少年時代を彷彿とさせるイシドロが、
彼を慕ってパーティに加わったことを見ても明らかなように、
この「投影」は作品における1つの軸といっても過言ではないと思います。



ではこの「投影」によって、もたらされる効果とは何でしょうか。


それは、ズバリ「共感」です。


「投影」する描写があることによって、
登場人物たちの「共感」が、読者の「共感」につながっていくのです。


ガッツが誰かに自分を見出す。それを見た読者は、
その誰かの中にガッツを見出し、ガッツという人間に「共感」していくわけです。


〈「投影」→「共感」の一例 〉

ガッツが弱くて醜いバルガスに、自分の姿を重ね合わせる。
   ↓
強くてカッコいいガッツにも、人間的な弱さがあることがわかる。
   ↓
読者「ガッツって本当はすごく悲しいヤツなのかも」 (´・ω・`) ソウカモ


このパターンの繰り返し、複層化ですね。


ベルセルク』は、孤独や寂しさを描いた作品だと思われがちですが、
じつは多くの「共感」に溢れる物語でもあったのです。


なるほど、そうだったのか。



  
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【 ツクイヨシヒサ 】


マンガ評論家&ライター。1975年生まれ。書籍、雑誌、ムック、インターネットなどで活動。

●ツイッターはこちら↓ https://twitter.com/tukui88

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●著書「あだち充は世阿弥である。──秘すれば花、『タッチ』世代の恋愛論」(飛鳥新社)発売中。

  


●編著「ラストイニング 勝利の21か条 ─彩珠学院 甲子園までの軌跡─ (ビッグ コミックス〔スペシャル〕)」(小学館)発売中。

  


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