『昭和元禄落語心中』


ちょっとお仕事の関係で、アニメ『昭和元禄落語心中』のDVDを手に取ったら、
結局、面白くて第1シーズンの最終話まで一気に観直すはめになりました。

ので、考察&雑感を備忘録。
いつもの「ネタバレ配慮のショートコラム」的なアレです。

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『昭和元禄落語心中』は、
有楽亭八雲(八代目)と、彼の親友・有楽亭助六(二代目)、
さらに八雲の弟子・有楽亭与太郎という、
3人の落語家を中心にして巡る物語です。

観始めて、まず思うのは

「夏目漱石の『こころ』みたいな話だなあ」

ということ。

理知的な師、彼を慕う若者、ほのめく暗い過去……。
ああいう雰囲気が好きな人は、まあハマる気がします。

で、「先生」と「K」がそうであったように、
『〜落語心中』においても
「八雲(というか菊比古)」と「助六(あるいは初太郎)」
の過去が、とても重要な意味を持っているわけです。


この作品を観ながら、僕がもっとも
「うまいなぁ」「エライこと描くなぁ」と考えさせられたのは、

「〝表現者〟と〝体現者〟の対比」です。



   


落語というのは、いうなれば
「人間の業をあたたかく受けとめるエンターテイメント」です。

人間が人間らしいがゆえに、陥る滑稽さ、醸し出す可笑しみ……。

そう考えると、八雲(というか菊比古)は、
落語からもっとも遠く離れた生活を送っている男です。

彼は人生全般において己が理性を働かせ、
不相応な振る舞いを自らに許しません。

彼にとって落語は、
生きるために身に付けざるを得なかった「芸」であり、
だからこそ大名人と呼ばれるほどの
腕前にまで磨き上げることができた、ともいえます。


一方、助六(あるいは初太郎)は、
自分と周りの感情を何よりも優先させる、
人間味が服を着て歩いているような男です。

彼にとって落語は、自分自身の「生き様」であり、
だからこそ彼の噺は、名だたる真打ちを差し置いて
人々の心を捉えて放さない、と解釈することができます。


が、しかし……。



   



助六(あるいは初太郎)は、

誰よりも落語的であったがゆえに、
その業によって身を滅ぼしていきます。


落語の〝表現者〟となった八雲(というか菊比古)と、
落語の〝体現者〟となった助六(あるいは初太郎)。


2人の生き方を決定的に分けて見せたのが、
みよ吉(もしくは百合絵)という哀しい女性の存在でした。

落語から遠く離れた価値観で生きていたから、
みよ吉を退け、落語を選ぶことができた八雲(というか菊比古)。
落語そのものの人生を送っていたから、
みよ吉を受け入れ、落語を捨てる決心をした助六(あるいは初太郎)。

この皮肉めいた対比が、『〜落語心中』という作品の
根幹を成していることは疑いようがありません。

浅田次郎の小説『三人の悪党 きんぴか1』に、
以下のようなセリフが出てきます。

「あれほど言ったじゃねえか、浪花節は聞くもんで、歌っちゃならねえって」


助六(あるいは初太郎)に聞かせてあげたい言葉です。

『〜落語心中』、来年のアニメ第2シーズンも楽しみです。